マレーシア・ペナン島日記

マレーシアのペナン島での生活を通して見たこと、感じたことを発信します

アイル・イタム戦争記念公園

アイル・イタム戦争記念公園(Air Itam War Memorial Park)

ペナン島のアイル・イタムには、第二次世界大戦の犠牲者を追悼する「Air Itam War Memorial Park」がある。この戦争記念公園には、戦争の犠牲者を弔い、ビルマから雲南省への道路開拓の整備工を讃えるための記念碑が設置されている。

記念碑

公園は交差点の脇にあり三角形の形をしている。

交差点側には、トラックと整備士の彫刻がある。

彫刻の前方正面

車の進行方向に対して左側

車の後方から、進行方向に対して右側

公園の奥には、後に加えられた別の記念碑があり、「世界和平是全人類的共願」と書かれている。

公園奥の記念碑

公園の反対側には、レリーフが設置されており、そこには英語、マレー語、中国語、日本語による説明文がある。この説明文の内容は写真とともに文末に付記した。

レリーフ

レリーフの説明によれば、日本軍は日中戦争中に中国の港湾を封鎖したため、中国政府はビルマから雲南省への道路建設を計画、ペナンからも整備工が派遣された。また、日本軍はペナンを占領し、多くの住民が拷問や粛清によって命を落とした。この戦争の惨禍は、ペナンの歴史に深く刻まれている。

戦争による多くの犠牲者を出したのは日本も同じである。戦後、日本は憲法戦争放棄を掲げ、それ以来、一度も他国と戦争をすることなく、平和国家として歩んできた。この姿勢は、アイル・イタムの戦争記念碑が願う世界平和とまったく同じものである。

マレーシアの年配の方々の中には、日本軍の占領による苦難を知っている人がいる一方、若い世代の多くは、戦後の日本の復興と平和国家としての姿を好意的に見ており、全体としてマレーシアの人は日本に対して良いイメージを持っている。このような国際的な信頼は、日本が長年にわたり平和友好の努力を重ねてきた成果であり、再び政府が戦争の過ちをおかすことの無いよう、国民が見守っていかなければならないと思う。

最後にレリーフの説明文の写真と、説明文そのものを記しておく。 なお、説明文には若干の誤植があるので、3か所ほどの最小限の修正を行った。

レリーフの日本語説明文

レリーフの日本語説明文

ペナン華僑杭日戦殉職整備工及び戦没同胞記念碑の由来

1931年9月18日の満州事変後、日本軍は中国の東北三省への侵略を進めたことから、ぺナンでは、民族主義意識が高まった。華僑社会は日本の軍事的な支配に対して強い憤りを感じ、被災民や傷病兵を救済するための募金活動が積極的に広がっていった。

1937年7月7日蘆溝橋事件ののち、日中戦争が中国全土に展開された。このことから8月15日ペナンでは42の民間団体がペナン祖国難民振興基金大会(略称 ペナン華僑振興基金会)として組織され、中国国内の民族抗日統一運動と一体になっていった。

日本軍は中国沿岸部の主要海港を占領して、中国への援助物資の海上輸送線を全面遮断することになった。中国国民政府は中国へ軍事物資を輸送するためにビルマ雲南省と繋がる険しい山岳地帯で、20万人の年寄り、婦女や子供を含め中国人労働者によって千キロ以上の公路を建設した。1939年南洋華僑籌賑祖国難民総会(南僑総会)の会長陳嘉庚氏は当時の中国政府の呼びかけに応え、滇緬道路(雲南省ビルマのルート)を使って3000人以上の整備工たちが雲南省ビルマ間の物資輸送の担当として任務を開始した。ペナンから358名の整備工が派遣された。1939年2月20日、機械整備プロジェクトチームに加わった32名の整備工たちが中国本土に行った。同年4月から12月にかけて、ペナン華僑振興基金会によって5回にわたり、326名の整備エが派遣され、中国南西部の抗日運動の重要な役割として、日本軍の爆撃下にあって後方支援の任務を遂行した。

1941年12月8日に太平洋戦争が勃発した。日本軍はタイの南からマレー半島を侵略し始めた。イギリス軍はペナン島から全面撤退して全島が無防備となり、日本軍による軍事統治が始まった。ペナンの3年8ヶ月に及ぶ日本占領時には、戦闘ではなく日本軍の拷問、虐殺などによって無抵抗の一般市民が尊い命を奪われた。1942年4月6日と9月T5日、日本軍は2度に渡り反日抵抗活動家と目される人物に対して大規模な検挙と粛清を行った。鍾霊中学校の教師や生徒をはじめとして、およそ五千人以上の民間人を逮捕し、激しい拷問などによって千人以上の人がそのまま帰らぬ人となった。

終戦後、ペナン華僑振興基金会が劉玉水氏によって活動を再開すると、日本軍占領中の死傷者や損害状況の調査を行われ、中国本土に百余り生き残ったペナンの整備工の帰国を支援した。1950年3月18日、 ペナン華僑振興基金会に特別委員会が設立され、日本軍占領下のペナンでの被害者の遺骨収集と中国本土で活躍した整備工やその他犠牲者になった華僑同胞の霊を弔う記念碑を建てることとなった。

1951年3月から、遺骨収集作業が行われ、その結果、グルゴーのクームヒル、アイヤイタムの天徳園、タンジョンブンガの貯水池付近、ハトゥフェリンギから発掘された不完全な遺体は約800体にものぼった。それらの遺体は納棺されたのち、茶毘に付され、その遺灰はこの「ベナン華僑抗日戦殉職整備エ及び戦没同胞記念碑」の下に埋葬された。

記念碑の敷地は周国鈞、国光氏兄弟らによって寄贈された。碑柱は三角形を呈しており、高さは49フィート、3つの面にはそれぞれ7段のステップがもうけられている。これは日中戦争の発端となった盧溝橋事件の1937年7月7日の歴史的教訓にちなみ、末永い国際平和を維持していこうという意義が込められている。記念碑の除幕は1951年、第一次世界大戦終戦記念日でもある11月11日の午前11時、ペナン振興基金監査委員会の元委員長である林連登氏によって行われ,管震民氏は戦争犠牲者の家族を代表してスピーチを行った。

1952年ペナン華僑振興基金会を解散し、記念碑の管理と毎年の祈念式は公民学校の理事会に委任された。今年の60周年記念にあわせて、記念碑を修復し、整備工を記念して新しくレリーフを加えた。また全人類の戦争反対と世界平和の祈念の象徴として、空を飛ぶ鳩をテーマとした平和の柱を建てた。

記念碑の修復と彫像の建築費はあわせ約40万リンギットであった。すべてペナン州政府、各団体およそ個人の寄付によるものである。2011年IT月11日午前11時、ペナン州首席大臣林冠英氏によって開幕式を行なった。公開祭典を行い、出席者はペナン州政府及ぴ各組織とパーティの代表、国内と海外関連組織及び機工の子孫、厳粛な場面である。

ペナン公民学校理事会及び記念碑管理委員会